日建商事株式会社

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「震災から4年を迎えて」

東日本大震災から本日で満4年が過ぎた。

あの日からもう4年も経ったかとの思いと、まだ4年しか経っていないのか

との思いが交錯している。

3月11日午後2時46分、私は秋田自動車道を山形に向かって走っていた。

突然ハンドルが大きく取られ、それが何回かあったが、雪が降っていて突風でも吹いたのかと思った。

そのまま横手ジャンクションから十文字方面へ向かったが、

仙台で働いている娘から「生きている!」という短いメールが入り、

何が起きたか解らないまま十文字インターで高速を降りた。

料金所のおじさんが「仙台で大きな地震があったらしい」と教えてくれた。

その後も大きな余震が続く中、会社や個人携帯、自宅、家族携帯と片端から電話をかけたがまったく通じない。

あたりは停電となり、のろのろ運転で途中新庄のスーパーで蝋燭や当座の生活物資を購入し、

山形本社に着いた時は夜の7時頃だった。

会社には誰も残っておらず、自宅へ帰った。

我が家は3階建ての3階に住んでいる為か揺れは凄まじかったらしく、

本棚や戸棚からはあらゆるものが飛び出していて、足の踏み場もない状態だった。

余震の続く中、仕方なく二晩車中で過ごした。

ワンセグで見た津波の映像に驚き正確な情報も無いまま、

我社の仙台営業所はどうなったのだろう?水没したのか?

営業所の人は無事なのか?と心配したが、連絡が途絶えたままではどうしようもない。

その後わかったことだが、津波に巻き込まれた人は1名いたが奇跡的に助かり無事避難所にいるとの事。

他は車で津波から逃げ通せた人が1名いたくらいで皆無事だった。

何とかガソリンを確保出来た3月15日、本社草苅課長とミネラルウォーターや灯油、

食糧などの救援物資を積んで仙台営業所に向かい、

その後自衛隊や警察車両が頻繁に通る異様な情景を見ながら産業道路を多賀城・

七ヶ浜町方面に近づくと津波の被害跡が目に入って来た。

泥だらけの街で数多くの車が重なったり家に突っ込んだり、

電柱に布団が引っ掛かったり鉄骨が飴の様に曲がっていたりと、それは現実とは思えない惨状だった。 

避難所である七ヶ浜町の松ケ浜小学校体育館に着いて扉を開けると、

体育館一杯に避難してきた皆さんが喧騒の中に居た。

また、津波に流された菖蒲田浜の住宅地一帯は絨毯爆撃を受けた様に壊滅状態となっていた。

震災を目の当たりにした思いがした。

我社はその後、紆余曲折を経て震災からの復興を成し遂げる事が出来た。 

いざという時に全員の力が結集された結果である。

仙台営業所には震災後新たな人材が続々と入社、新戦力として大いに活躍していただいた。

事務方も手書きでの請求書を発行したり、慣れない作業に積極的にチャレンジした。

仙台営業所の整理整頓には、他の営業所から応援に来てもらった。

震災後4年を数えて、「まさか」の出来事も変毒為薬(毒を変じて薬と為す)出来る事を学んだ思いである。

                                             早坂 智

更新日:2015.3.11

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